みそひともじりんぐ なう ぱあとつう

Trunk

2011年07月26日 22:46

ええと、私、いままで詩吟の会を名乗っておりましたが、微妙にずれがあるので、これからは詩歌の会を名乗ることにいたしました。

改めまして、とぅらんく詩歌の会です^^

本日は、東直子さんの短歌を堪能したいと思います。
といっても、私の歴史はとっても浅く、本当に短歌を本当の意味で堪能できるかは謎です。
(日々精進していきたいとおもっておりまする~)

それで、今回はとぅらんく芸術鑑賞部部長をお招きして、一緒に短歌を鑑賞して行きたいと思います。

さて、肝心のお題です^^
東直子さんの短歌です。(くどいようですが)


森の中に出かけてゆくのわたしたちアーモンドグリコを分けあいながら


これです^^
部長さんが何か言いたそうなので代わります。

部長曰く:「グリーンのグラデーションの中に小さな赤が点灯している」

だそうです。
そうですね、森の中に出かけてゆくのだから、少しずつグリーンが濃密になって行く気がしますね。
さらにどうですか?

部長曰く:「森という場所は古い古いものが沈殿しているように思う。その中に入っていく二人が分けあっているものは、赤い。何となくライトのようにも思える。
しかし、グリコという言葉は、何となくレトロな雰囲気を持つ。ゆえに、いにしえの場所に降りていく時のライトでさえも、少しずつ時代を感じさせるものになっていくようなイメージを持つ。」

ふむふむ、そうですね。何となく筒状の赤いポストを連想しました。
それにしても、どうして、「アーモンドグリコ」は赤いのですか?

部長曰く:「共感覚かしら?」

何となくわかるような気がします。続けてどうぞ。

部長曰く:「以前、カンスタブルというイギリスの風景画家の絵を溺愛していたのであるが、「干草車」という有名な風景画がある。手前に河があり、そこを干し草車が渡ろうとしているのだが、牛の鞍のような部分が赤い。
全体的にグリーンと黄土色に近いブラウンが画面を覆っているが、この赤のおかげで、全体が引き締まっている。
そして、森の中に出かけていく二人は少しずつあわいグリーンから、歴史の澱むような濃いグリーンの方に向かう。その情景の中で、赤いグリコが全体を引き締めているように思える。」

続けて部長曰く:「カンスタブルはキアーロスクーロ(明暗)という技法をよく使う。この技法は、風景画家の先駆けのような人の一人、クロード・ロランも使っていた技法だ。(風景画は歴史が意外と浅い)
前面の右か左に交互にアップの木陰や建物などを持ってきて、少しずつ見る人の視線を移動させて、その絵の見どころに視線を持っていくようにする、というような感じだったと思う。(記憶で話している)

東さんの短歌も少しずつ色合いが濃くなってくるあたりで、赤が点灯する。
この短歌の場合、視線は現在から過去へと導かれていくような気がする。手にしたライト(赤いグリコ)でさえ、その場所の持ついにしえの誘引力によって、レトロ化している。おそらく、既にライトではなく石油ランプになっている。
それを分けあいながら食べる2人は、(これは男女である、解る)分けあって一緒に同じものを食べることによってつながってゆく。
そして、いにしえの深き森の檻の中へと歩いてゆくのだと思う。」

なるほど。こんなに深読みするとは思わなかったな~部長。
このカップルは、この先どうなるの?

部長曰く:「いにしえのものによる作用にて、ひきはがそうと思っても、離れることのできない二人となるであろう
そして、軽い気持ちで、でかけてゆくのわたしたち、となっておるが、もはや、帰ることまかりならぬであろう。アーモンドグリコがすでにその兆しとなっておる。」

アーモンドグリコ恐るべし!

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